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断章

男もすなる日記を[…]

紀貫之:『土佐日記』

以下は、自分の備忘録として始めたものですが、ときどきテキトウに編集したりもするだろうから、「日記」としての意味はなくなってしまうでしょう。

とは言ったものの、早くも日記どころか「月記」にすら、ならなくなってしまった(笑)。

目次

手紙

手紙というものはずいぶん前から年賀状くらいしか書かなくなっているが、それについても、届いた年賀状に返事を書くだけになっている。しかし、一般的な年賀状というのは考えてみると奇妙なもので、互いに同時に送り合うだけで、返事はないという不思議な手紙だ(または、返事は来年?)。

ところで、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』という小説は、主にウェルテルの出した手紙だけを並べた構成になっていて独特の表現にもなっているわけだが、思うに、彼の手紙に対する返事は実際なかったのではないだろうか。仮にあったとしても、ウェルテルは数日ごとに手紙を書いているので、返事を待たずに次の手紙を書いていたのは間違いないと思う。

電子メールだけの生活を続けていると、つい勘違いしてしまうが、手紙であれ、電子メールであれ、電話や対面で会話しているのであれ、速度の違いはあっても、すべて「郵便的」(笑)なのであって、発話行為とは、そもそも「配達されない手紙」であり「返事のない手紙」なのだ。

ちなみに、電子メールの特別な点は、簡単に書けるとか、相手に時間の共有を強制しないといったことよりも、コピーを手元に残せるということだと思う。

Written: Mon Jan 7 JST 2002

『ポワゾン』と『暗くなるまでこの恋を』

映画『ポワゾン』の原題は英語での「原罪」のようで、「毒」という題にするにしてもフランス語にしてしまった点は恥ずかしいが、いうまでもなくフランソワ・トリュフォーの『暗くなるまでこの恋を』のリメイクである。しょーもないフィルムだろうと思っても、好きな作品のリメイクと聞くと見に行ってしまう癖があるのだが、実は今回は全く知らず、単にアンジェリーナ・ジョリーの、あの凄い顔を見に行っただけだったのだが、冒頭から少し経って、気がついた。

結論から言うと、予想よりは面白かった。もちろん、物語の展開などについてではなく、例えば、夫であるアントニオ・バンデラスが妻のジョリーの跡をつけるときの、カメラを720度くらいゆっくり回すショットなどだ。また、二人でいかさまポーカーを試みるとき、ジョリーが円卓の周りをゆっくり歩き回る場面なども、かなりよかった。監督の意図は知らないが、思うにこれは、トリュフォーの単なるリメイクと言うより、それを、同じヒッチコック・ファンである元同士クロード・シャブロル風にリメイクしたもの、と言った方がよさそうだ。

しかし、妻が自分を殺そうとしていることに気づく文脈とか、それを受け入れて毒入りコーヒーを一気に飲んで自害していまおうというあたりには、トリュフォーと比べてはもちろん、もしシャブロルが撮ったと想像してもそれに比べてサスペンスに欠け、よくある最近のアメリカのショッキング映画になってしまっているところが惜しい。また、悪女はカトリーヌ・ドヌーヴのように徹底して冷酷であるべきだし、男はジャン=ポール・ベルモンドのように徹底して間抜けであるべきだ。ただし、冒頭からラストショットまでジョリーの顔にこだわった点は、しばらくの間のハリウッド大作では珍しくなっていたように思い、印象に残った。

それにしても、銀座シネパトスというところは最低だ。地下鉄が通るだびに、その騒音が劇場内に響きわたる(怒)。

Written: Mon Dec 17 JST 2001

禁歌考

今回の同時多発テロにともない、合衆国(直訳すれば「合州国」という表記の方がふさわしいと思うが)の大手ラジオ・ネットワークがlyrically inappropriateな約150曲を放送自粛したという。List of Banned Songs参照。

レノン「イマジン」は毎度のこととして、スプリングスティーン「アイム・オン・ファイア」、バングルス「エジプシャン」というあたりは苦笑という感じだが、「明日に架ける橋」「What a wonderful world」などは、曲名や歌詞に特に問題はないんだろうから、なんとなく悲しくなる曲、ということなんだろうか。感動的で、元気になる曲、という気がしていたが。

と思いつつ、自分は歌を聞くとき、ほとんど歌詞を聞いてないため、自信がなくなってきたので、もはや手元になかった「Bridge over Troubled Water」のCDをブックオフで950円で買ってきた(笑)。予想どおり日本語訳は付いてなかったので、暇にまかせて辞書を引きながら読んでみる。しかし、やはり別に「問題」はないようにしか思えない。

それにしても、歌の放送規制というのは、アメリカ合衆国として恥ずかしすぎる。太平洋戦争下に、戦意高揚映画として素晴らしいフィルムを生産した伝統を踏まえて、規制する曲よりも凄い曲を作ることに目を向けるべきだ。

一方、われわれは、カラオケ店に日参してこの150曲を歌い、ランキングの上位に上げるという闘いをするしかない。

# それにしても、なんで「オブラディ・オブラダ」も駄目なの?

Written: Sat Sep 22 JST 2001

小泉/近衛 または 田中/松岡

また小泉問題(笑)で恐縮だが、小泉は戦前の公爵近衛文麿首相に似ていると思う。

近衛は「英米本位の平和主義を排す」という論文で当時の国際協調派を批判して脚光を浴び、昭和金融恐慌後という厳しい時期に国民の圧倒的な人気を背景に首相に就任したが、自身の主張が究極的には日米戦になることを理解できず、また、彼をバックアップした武断派に与することもできず、逆に、日中事変解決、日米戦回避、早期講和に努めたが果たせずに、むしろ政局を混乱させただけに終わり、結局、東京裁判出頭当日に自殺した。

『世界の歴史 23 第二次世界大戦』(上山春平、三宅正樹: 河出文庫)によると、当時、近衛のラジオ放送というものがあり、政治に無関心な多くの人々も耳を傾けたという。今のワイドショーや視聴者と同じだ。

さらに面白いのは、近衛内閣の外相になったのが松岡洋右という点だ。松岡はそれ以前に国際連盟からの脱退で「国民的な英雄」になっていたわけだが、近衛は、松岡が自分と同じく表面的には右派的だが本心は国際協調派だと思って登用したらしい。しかし結局この二人は腹を割って話すことはなかったようで、各々の単独行動も微妙にすれ違って効果を上げなかったどころか、些細なことから不和となったらしく、それらさえなければ歴史は大きく違っていた可能性がある。

若くして渡米し英語に堪能で、国際連盟本会議場で恰好いい演説をして人気だった松岡も、かなり田中に似ている。小泉が、もし近衛/松岡を意識して組閣したのなら、やはり彼は二流の喜劇役者だ。

Written: Sun Sep 2 JST 2001

Modified: Sun Sep 2 JST 2001

独身者・小泉の非=独身者性について

靖国参拝以後、いわゆる保守派(なつかしい言葉だ)から、首相の小泉に失望したという声が聞かれるようになった。

小泉については少し前からどうでもよくなっているのだが、実は、総裁選に出馬して敗けていたころは、もしかしたらたぶん史上初の独身の首相として、何かをしてくれるのではと、密かに期待していた。もっとも、政治家に哲学を求める気にはならなくなって久しく、前の森についても、もしかしたら初の体育会系首相として、と思ったし、たぶん女性初の大政党党首だろう土井にも、たぶん女性初の重要閣僚だろう扇にも、似たような淡い期待を抱いていたにすぎないのだが……。

小泉は参拝後の会見で、口は一つだが耳は二つ持っている、と弁明した。これを、どこのマスコミも差別発言として糾弾していないようなのは不思議だが、それはさておき彼は、森派に右耳を、橋本派青木グループに左耳をつけ、その他、自公保連立や、民主や自由の一部にも別の耳を傾けるという、聖徳太子もどきを目指しているらしい。

ところで、生涯独身だったと言われている空想的社会主義者のシャルル・フーリエは、例えば以下のように書いている。

女性は次のような4つのものを同時にもつことができる。

  1. 二人の子供を作った夫
  2. 一人の子供しか作らなかった男親
  3. 一緒に暮らしたことのある気に入った男
  4. 単なる不特定の相手

フーリエは、卑近な一例として、互いにいろんなレベルの愛人をたくさんもっていて遺産もそれに応じて分配した方が誰もが平均的にそこそこの遺産も受け取れるはすだ、ということまで気真面目に提唱している。これは、今の金融で言うポートフォリオ(分散投資)のギャグになっているところが、すごい(笑)。

安全保障という点で両者を比べてみると、あるコンセプトから一つの体系を作ろうとしたフーリエと、その場ごとに派手めの情緒的発言をして、後から民主主義的な辻褄を合わせようとしている小泉とは、やはり大きく違う。学級会ではないのだから、いろんな意見を聞いて熟慮するという程度の単なる多数派工作ならば、日本の政界内だけではなく、数多くの外国とか世界市場までも対象にしてほしいものだ。今の行動は、守旧派と呼ばれていたものとほとんど変わらないし、一匹狼というイメージとも相容れない。

Written: Mon Aug 20 JST 2001

Modified: Sun Sep 2 JST 2001

エクリチュールと他意

1、2か月前だか、『朝まで生テレビ』で田原総一朗が「2ちゃんねる」のことを挙げたときに、宮崎哲弥が、田原総一朗が2ちゃんねるについて発言するとは画期的だ、と歓喜していたが、今日発売の『週刊ポスト』(6月22日号)にも社会ネタ(?)として数ページの記事が載っていて、それなりに画期なことのような気もする。

自慢ではないが、2ちゃんねるは、たぶん10回くらいしか眺めたことがないし、もちろん書いたことはない。一部分の文章だけを読めば、これは、フェリックス・ガタリが生きていたら、集団的言表行為のアレンジメントの実例の一つとして採り挙げたかもしれないが、はっきり言って、私は嫌いだ。嫌悪感がある、と言った方がよい。この掲示板群じたいや、そこに書かれている発言の多くが嫌なわけではないが、どの「板」にも必ず出てくる厭味な一言発言は耐えがたい。それは実はごく数人の人が(ハンドルネームを使い分けながら)書いてるだけでは、といった妄想(むしろ希望)にさえかられるが、凡人の私の気には触るし、匿名の立場から他人を小馬鹿にするという言動を許し、実は、むしろそれによって盛り上がるシステムであることが、民主主義という制度のいちばん悪い面を体現していると思うからだ。漫才の「ボケ」や「突っ込み」が客の前に顔を曝しているのとは、大違いである。

ところで、ロラン・バルトもジャック・デリダも「エクリチュール」(書くこと、書き方、writing)について語ったが、それは実際には「読み方」(レクチュール)の方のことであって、特に、それまであまり評価されてなかった文章をも他意なく読んで、クソ真面目であっても敬意を込めて表明するという、言ってみれば当り前の実践のことだと思う。

蔭の立場から他人をけなすという悪意を込めた「書き込み」は、「エクリチュール」とは正反対のものだと思うし、私はそういう文章を目にするのは不愉快なのだ。

Written: Sat Jun 23 JST 2001

Modified: Tue Aug 28 JST 2001

カフカの喩えについて

フランツ・カフカの『喩えについて』を十数年ぶりに読み直す機会があった。相変わらず「意味」はわからないのだが、暇にまかせて少し考えてしまった(ドゥルーズ=ガタリなら、解釈するな、機能させろ、と言うところだろうが…)。

岩波文庫(『カフカ短篇集』、池内紀編訳)の見開き2ページに過ぎないこの短篇を読んで、まず気になるのは、賢者の言うことは喩えばかりで役に立たないといったことを述べている前半と、有名な最後の一言で終わる後半の対話との、二部構成になっていることだ。前半だけでは単なる一般論だし、後半だけでは面白みは半減するだろう。今回読み直して思ったのは、この後半部分は、前半部分の「喩え」になっているということである。「喩えどおりにすればいい」と言う「ある人」は、「賢者」の一種であって、じっさい意味不明の最後の一言で「もう一人」と読者をけむに巻き、「日常の役」には立ちやしない。

また、ざっと読むと、喩え←→日常、勝ち←→負け、という二次元の話のように思えるわけだが、これは勘違い(またはカフカの策略)であって、本当は、喩え←→賭け、勝ち←→負け、という二次元空間が示されているのではないかと思う。しかも、喩えのなかで勝つ、というポジションは、ありえないものとして扱われているようだ。

ここで、おもむろに手元の『岩波古語辞典』を見てみると、「たとへ」の語源はよくわからないのだが、「かけ」は「物の端を目ざす対象の(側面の)一点にくっつけ、食い込ませ、あるは固定して、物の重みのすべてをそこにゆだねる意」であり、「賭け」も「懸け」や「掛け」と同じで、特にその変奏として「目標に心のすべてを託す」ということから来ている。「それだって喩えだね。賭けてもいい」と発言する「もう一人」は、まさに対象(オブジェクト)への直接的な関係を指向して断言しており、「賭け」の人でもある。

では、仮に「たとへ」が「かけ」と無相関(直角)の次元であるとすれば、それはどのようなものなのか。直接的な関係を指向しないのだから、対象と似て非なるものを繰り返し反復し続けるといった作業になるだろう。喩えどおりにすれば、自分もまた喩えになるのである(笑)。そしてそれは入れ子のように続き、終わりはないのだから、勝者というものはありえない。

原文がドイツ語なのに、その訳語の日本語の辞書を基に話をするのは、もちろん馬鹿げている。だからこの文章も『喩えについて』の批評などとは言えないが、「カフカの喩え」についての一つの喩え話にはなるのかもしれず、カフカはこういうふうに読んでもいいような気がする。

Written: Tue May 29 JST 2001

Modified: San Jun 3 JST 2001

独立か自由か

今夜のNHK大河ドラマ『北条時宗』のタイトルは「戦か属国か」だった。蒙古の威嚇的な国書に対して我が国の主権を守るか従属国となるかというテーマなわけだが、いつものことではあるけど、いい加減な話である。

「蒙古はいにしえのローマ帝国を範とし」といった台詞まで実は出てくるのだが、『古代ローマ帝国』(吉村忠典、岩波新書)を読めばわかるように、ローマ時代はもちろん、中世にも、独立国(主権国)か属国かという概念は存在しなかった。それが登場するのは、西欧の近代的な国民国家(ネーション・ステーツ)とともに、それ以降のことなのだ。

では、ローマ時代の政治的な対立軸は何かといえば、「自由か不自由か」であって、「一つの国が自分の国の法律にしたがって生活しうる状態が『自由』であり、それはローマから与えられた法律であってもよかった」。小泉内閣の成立とともに憲法論議がまじめになるとすれば喜ばしいことだが、「アメリカから押しつけられた」といった議論が西欧近代の理論の枠内の話でしかないことは明らかだ。

ついでに言うと、世論調査によれば首相公選制に賛成している人が多いらしいけど、それによって小泉や田中真紀子あたりがトップになるだけのことであれば、いったい誰にどんなメリットがあるのだろうか。「国」くらいの広い地域の政策が選挙ごとに大きく変わってしまうのは我々個人にとっては迷惑な話のはずであり、それは任期の長いアメリカ大統領制でも同じだと思う。戦略や戦術を柔軟に変える必要があるのは企業や事業者の話であって、「国」などは旧態依然とした保守的なものであった方が、私たちにとっては便利なのではないか。ギリシャのくじ引き制やローマ共和政の1年任期・複数官制などを適用すべきなのは企業経営に、なのであり、「国」の政治はむしろ世襲的・保守的な方が便利なのだから、私も最近は逆説的に天皇制を擁護したい気にもなりつつある(笑)。国会中継の視聴率を挙げるためということなら、参議院を廃止し貴族院を復活すべきだ。

ところで先日、民放で『スパルタカス』が深夜に二夜連続で放送され、見るつもりはなかったのだが結局全部見てしまい、寝不足になった (^_^;)。キューブリックの中では最低レベルの作品と思えるが、それでも、例えば去年のアカデミー賞を取ってしまったらしいリドリー・スコットの『グラディエーター』などと比べれば、やはり格が違うと言わざるを得ない。が、『スパルタカス』が決定的に駄目なのは、古代の剣奴の反乱を近代民主主義的なものとして描いている点に尽きる。歴史が面白いのは、過去の事実が今に似ているということに気づいて悦に入ることではなく、過去が今とは全然違っていたということに驚きつつ笑える、ということなのだ。

Written: Mon May 14 JST 2001

誰かに似ている

昔、よくテレビ番組で素人の女性が登場したときに、「誰に似てると言われる?」と訊かれて「今井美樹」と答えるギャグがあった(笑)。

一方、男性も、同じような答えをすることが少なくないようだし、そもそも「彼女はどういう人?」と訊かれると、タレントの名前を挙げることが多いようだ。

かく言う私も、好きな人が小泉今日子に見えたり、武田久美子に見えたり、高岡早紀に見えたりしたことがある。

しかし、これは錯覚なのだ。あの人が小泉や武田や高岡に似ているのではなく、彼女らが「あの人」に似て見えてしまうだけのことなのである。

Written: Fri May 11 JST 2001

GIMP for Win32

Windowsのマイナーなフォントを用いたDTPの画像を作らなければならなくなったので、初めてWindows版のGIMP v.1.2(gimp-setup-20001226.zip)をインストールして使ってみた。

結論としては、直接文字を入力するという用途では、PhotoShopの方が、テキストをレイヤーに保存できるし、印刷用にも、文字のポイントサイズの指定がプリント解像度に対応したものになるなどの点で、さすがに高価な意味もあるなあと思った。現状のGIMPでは、テキストの修正はできないし、印刷時の目標の文字サイズと一定の品質を実現するためには、昔ながらにプリント解像度とフォントサイズを予め電卓で計算しておく必要がある(笑)。

また、Windows版GIMP v.1.2は、ときどき「ブラシ選択」やGIMP本体がクラッシュを起こしてしまうので、編集中はこまめに保存した方がよい。

さらに、2300×2300ピクセルの画像を作ってみるとクラッシュの頻度が上がり、プリントすると、なぜかグレースケールの画像が緑で印刷されてしまい、プリンタのインクを「カラー」ではなく「黒」にしても、薄いグレーになるようになってしまった。なので、校正用のプリントアウトは、FreeBSD上のv.1.1.17で行った。

ついでに、初めて知ったが、Windows版のGIMPはUNIX版とは違って、ライセンスの関係でgifの出力はできないらしい。

Written: Sun Mar 25 JST 2001

「チーズはどこへ消えた?」

巷でベストセラーになっている『チーズはどこへ消えた?』だが、変化に対応しよう、変化を楽しもうといったメッセージそのものには共感するし、いかにもアメリカンなビジネスコンサルタントの言いそうなことで、セミナーはこういう構成なんだろうなと納得したりもするが、内容としては数十年前の『エクセレント・カンパニー』の一部分と何も変わらないだろう。

それより面白かったのは、この本の原題がWho Moved My Cheese?だという点だ。

物語の中心は、ある日チーズがなくなってしまうと、それは誰かのせいであって自分は悪くないと言い張り続け、そこに留まったまま次の行動に移れない主人公の一人だ。まさに「誰かが動かした」と思うわけである。ところで、同じ場面に日本人が出くわしたら、なんと思うだろうか。ふつうは「(なぜか)消えてしまった」、つまり「天災だ」と思うはずである。その点で邦題は名訳なのだが、逆に言うと、誰かが持って行ったと思い込むことへの反動として主人公が保守的になっていくという物語の流れが、曖昧になってしまってもいる。

もっとも、最近の日本人は「天災」とは思わずに、欧米的に「人災」と思う人が多いのかもしれない。「主体」や「責任」といった言葉がマスコミでも頻繁に使われるようになったためでもあるだろう。それじたいは良いことだと思うが、ただし、犯人探しが目的ではないということが忘れられがちではないだろうか。

Written: Sat Mar 17 JST 2001

ユートピア・憧れ・はなればなれに

『老子』に「小国寡民」という故事成句で知られる章がある。ユートピア(どこにもない国)の像として、自給自足の共同体を描いたものと解釈されているようだ。「隣国相い望み、鶏犬の声相い聞こゆるも、民は老死に至るまで、相い往来せざらん」の後半を重視するのだろうし、そもそも前段で「遠くの土地に移動させないようにすれば」と書かれているのだから、もっともではある。しかし、本当にそうなのか。

この「隣国が向こうに見えていて、鶏や犬の泣き声が聞こえていても」をやや大げさな条件文とすれば、そういうことになるのだろうが、現実として想像してみれば、そうした状況でも「互いに行き来することはないだろう」というのは、やはりかなり奇妙なことのはずだ。

西郷信綱の『古代人と夢』(平凡社)を読み直していて改めて気がつき、辞書を引いてみたのだが、「憧れ」とはアク(所または事)からカレ(離れ)ることで、特に身体から魂が離れることらしい。だとすれば、ユートピアとは、憧れの対象であるというよりも、常に憧れている状態のことではないかと思う。「隣国が向こうに見えていて」「互いに行き来することはない」というのは不思議な話だが、実は今やインターネットは、そのようなものとして現存している。

ちなみに、ゴダールの『はなればなれに』を初めて観ることができた。アンナ・カリーナはブリッ子演技だったが、それにしても可愛いらしすぎる。このフィルムの原題はBand à partで、直訳すると、外れた一団、離れた一団〔バンド〕となる(余談だが、フランソワ・トリュフォーの初期に『あこがれ』という忘れられない短篇がある)。

Written: Mon Feb 12 JST 2001

Modified: Tue Feb 13 JST 2001

映画とテレビのS.O.S.

深田恭子に違和感を抱く人は少なくないようだが、極端な例としては松田聖子もそういう人なのであり、フカキョンはテレビドラマ女優としてはかなり良い方なのではないかと思う。特に『S.O.S.』というドラマでは、これまた大げさな例で恐縮だが、かつての角川映画での薬師丸ひろ子をテレビドラマに上手に移植できたもののようにさえ感じる。

ドラマ『S.O.S.』は、恋愛とは「愛し合う/恋し合う」というものではなく本来「片想い」に過ぎないことを改めて主題にした点で、逆接的に今ふうだ。大昔のソクラテスの時代は、そういうものだったからである。「恋人」という言葉は、恋する対象として例えば英語のloveの意味で使われることもあるが、ふつうは恋し合う二人であるloversという意味で使われることの方が多いように思う。しかし、古代ヨーロッパの恋とは一方向的なものだったわけで、恋人とは英語ではloverの方がふさわしく、この複数形と単数形の違いはあまりにも大きい。

ところで、この『S.O.S.』というドラマは、俳優よりも演出家よりも、結局のところ、野島某による脚本が主役だ。それが現代の映画にとっての「S.O.S.」になってもいるのだが、実は、テレビドラマ自身にとっても、どう頑張ったとしたって脚本を越えることができないという危機的な状態を再確認させてくれる(ちなみに私はABBA世代なので、かなり好きなドラマの方だが)。

こういうときも、やはりゴダールを観ることだ。『はなればなれに』は正に片想いについての映画だが、それをストーリーとしてはたいして作り込んでおらず、単に画と音の組合せだけで表現していることに驚くべきである。カリーナ・ブラッスール・フレイが、あのカフェで席を次々に替え、あの絶句するしかないダンス・シーンでぐるぐる回っているときの、その位置関係(トポロジー (^_^;))に注目しよう。

Written: Mon Feb 12 JST 2001

Modified: Tue Feb 13 JST 2001

EZwebのEZチャイムはイージーな作りなのか?

私はiモードではなく、ツーカーのEZwebなのだが、メール着信をリアルタイムで伝えるEZチャイムが機能してないことがあることがわかった。

何時間も前に受け取っていたメールの受信通知がなく、こちらからEZサーバに接続したときに初めて、来ていたことがわかったのだ。その後、自分宛てにテストメールを送ってみたら、ちゃんと通知された。

昨日は大雪だったから、そのためかもしれないが、ツーカーのホームページを改めて見てみても、インターネット・プロバイダのような「障害情報」という項目がないことにも気がつく。もちろん毎月の請求書にも、障害報告はなかったはずだ。

まあ、ほとんど使ってないから、どうでもいいといえばそうなのだが、いい加減なサービスである。

Written: Sun Jan 28 JST 2001

職能と業績

サラリーマン社会では、最近は職能給と業績給の二元評価になっていることが多い。従来の一元的年功給よりは基準が多様化してるわけだから良さそうな気もするが、二元評価という以上はその二つの軸は相関のない直角の軸でなければ意味がない。例えば企業に対する、貸借対照表(ストック評価)と損益計算書(フロー評価)のように。しかし現実には、職能給と業績給は連動しているし、評価といっても主には過去の業績に対する評価であって、職能とはそれを言い替えたものに過ぎず、年齢や扶養家族などに対応する補正手段として使われているに過ぎないと思う。

こないだテレビで、サッカーの前園の話があり、数年前年収8千万だったのが今年は400万らしいが、結局、給料とは何に対する金額なのか、ということである。サッカーでも野球でも同じだと思うが、年俸は過去の業績に対するものではなく、今期での期待値に対するもののはずだ(その他のフリーランスでも同じはず)。では、サラリーマンの給料は、先月の業績評価なのか、来月の期待値(職能)評価なのか。

ちなみに今、激増する少年犯罪に対する少年法の改定と同時に、お年寄りを大事にしようといった道徳教育や年金充実などが復活しそうだが、これも、給料の後払いということならばつまらないことだし、年寄りの過去の業績だけを評価し今後の能力を無視している点では、年寄りに対しても失礼なことである。

結局、職能と業績について、直角の評価軸を作れないのであれば、その評価方針は間違っており、むしろ、単に(過去の)業績評価だけにした方がわかりやすい。逆にサラリーマンは、解雇され得るということを意識しつつ、給料は先払いなのだ、という気持ちでなければならないと思う。

Written: Sun Jan 28 JST 2001

マテリアリズム

エコロジーでも家事でも同じだが、モノを無駄なく使い切りゴミをできるだけ減らすということにはたいへんな労力と時間がかかる。支払う金は少なくなるのかもしれないが、かかる手間暇と比べてみれば、けっして経済的とは言えないだろう。それを実行するには、信念とか意地とか信仰(笑)が必要な気もしないではない。

モノを使いきりゴミを無くすということは、言い替えればモノの価値を上げることである。しかし実際には、資本主義経済の中では買い替え需要を減らし、デフレーションにつながる。インフレーションとはモノの価値が上がり価格が上がることだというふうに社会科の教科書には書いてあったと思うが、それは買われるための商品に関して言っていることにすぎない。急激なインフレは、資本主義にとっては恐慌(crisis)になるのでまずいが、無駄を生産して無駄に消費させ、買い替えを継続させて少しずつインフレにするという一種の自転車操業が最善なのであって、もし人々が自分の持っているモノの価値を上げてしまえば今の市場はデフレになり資本主義にとっての本当の危機(crisis)になってしまうだろう。

節約が自己目的化してしまう場合はさておき、こうしたエコロジーや家事の根本的な原理は、モノの価値を100%発揮させることのはずだ。小さいころ、ご飯の一粒一粒には仏様が宿りお百姓さんの願いがこもってるから食べ残してはいけないと言われたものだが、別に、残すことじたいは悪くはないのである。ただし、食べ残すときに、そういうことを一瞬でも思い出して心の中で手を合わせればよい(いわゆる「差別語」を発言するときも同じ)。

マテリアリズム(モノ主義、唯物論)とは、たかが(何人かの)人間の手間暇などより、モノの価値を優先させることだろうと思う。

Written: Tue Jan 16 JST 2001

fmlでの「メールマガジン」もどき

いわゆるメールマガジン的なものを受注した。メーリングリスト(ML)のサーバにはfmlを使い、$REJECT_COMMAND_HANDLERauto_asymmetric_registを指定して、発信者をmembers、受信者をactivesに登録することにするわけだが、もうひとつ要求があった。

以前に同様のシステムをやってみたときに、受注した会社の人が間違った操作をしてしまい、読者に配信されてしまったことがあるし、発信アドレスを偽ったイタズラメール防止の意味でも、いったん自分がチェックするようにしたい、とのことだ。

そこで、モデレータモードにしたのだが、こうすると、activesからや、membersでもactivesでもないアドレスから間違ってMLのアドレスに送信されたときでも、モデレータに確認メールが来てしまい、それは止めてほしいと言う。

客は、メールのヘッダにapproved:でパスワードを入れられるメールソフトは使っていないし、そのような作業を要求できるとは思えなかったので、結局、発信可能なアドレスから来たときには確認メールを返信し、それ以外から来たときにはdenyするようにするため、少し馬鹿馬鹿しい設定ではあるが、PERMIT_POST_FROMmembers_onlyにしておき、members(=moderators)からMLへのメールの場合はフックでモデレータモードに変更することにした。そのためには、config.phの最後に、以下のように書き加える。

$START_HOOK = q#
   if (&CheckMember($From_address, $MODERATOR_MEMBER_LIST)) {
      $PERMIT_POST_FROM  = "moderators";
   }
#;

Written: Sun Oct 8 JST 2000

「トリック」

私は仲間由紀恵のファンである。それにしても、どうしてこう次から次へと出て来る沖縄の女の子たちは魅力的なのか…。

それはさておき、仲間由紀恵の初主演のテレビドラマ『トリック』は、けっこう面白い。阿部寛も相変わらずいい(理系出身の美男俳優だし)。美男美女のお惚け演技というのはパターンなのだが、それほど厭味にもなっておらず、また、タイトルどおり謎解きものなのだが、その部分はお笑いに近く、妙にマニアックになっていないのが、いいように思う。演出の仕方は、さすがにナウいものになってしまっているが(笑)、しかしなぜか、昔の、懲りすぎてなかった良質のテレビ番組を思い出させてくれるような気もして好感がもてるのだ。

だが、あのエンドタイトルは、いけない。あれは、ショーン・コネリー/シャーロット・ランプリング/ジョン・ブアマンによる『未来惑星ザルドス』のエンドタイトルの、まんまのパクリである。

とはいいつつ、もしかしたらこの演出家は、ブアマンの「カルト的ファン」に対して、トリックをかけているのかもしれない。

Written: Fri Aug 11 JST 2000

右と左

今さらだが、先月の総選挙はつまらない選挙だった。あんなに死票が多い選挙制度ではますます投票率は下るだろうなと、投票率が上がってほしい人々のことを思うと心配もしてしまう。しかし、かといって、死票が最も少なくなる比例代表制には、依然として反対だ。「政権交替が起きにくくなるから」などという理由ではもちろんないし、死票が少なくなることじたいはけっこうなことである。政党(party)なるものがあることそのものには別に異義はないのだが、それが政治制度の中核に公式に採り入れられるというのは、実は時代錯誤だと思うからだ。中選挙区制度では政権交替が起こらず政治腐敗を招くとして日本が小選挙区制度に移行したと同じころ、イタリアでは、別の文脈で、敗戦後ずっと続いてきた比例代表制では連立政権が続くことによって政治腐敗が避けられないということから小選挙区制度に移行したわけだが、どちらも意義ある成果を上げられていないはずである。問題は、小選挙区か比例代表かということではなく、それ以前に前提とされている「政党政治」にあるからなのだ。

巷では、いわゆる「冷戦の終わり」や「イデオロギー対立の終わり」が語られているが、あれは私に言わせれば、共産党の独裁の終わりだったわけで、つまり、「政党政治の終わり」なんだと思う。日本の政治の歴史でも、政党政治は、1895年に伊藤博文が自由党と正式に提携したことから始まっているのだろうから、既に映画と同じく100年経っているのだ。

それはさておき、現在の政界(政党政治界)の地図を大雑把に書くとしたら、次のようになるのではないかと思う。

政界地図

とほほ、である。いわゆる「自自公」よりは「自公保」の方がわかりやすいことは確かだが、「自公保」vs. 民主党というのも、虚しい。かつて羽仁五郎は、民主主義とは第2党に投票することによって政権交替を起こさせることだ、と書いたことがあり、それを読んだ当時、嘲笑したものだが、結局、私たちは、こうした間抜けなことを行うしかないのか。自民党と民主党が分裂して「政界再編成」が求められている意味もよくわかるが、それもまた、以前と同じことの繰り返しにすぎないように思える。

Written: Sun Jul 30 JST 2000

可能な使命 あるいは 『M:i-2』

『M:i-2』を見た。ジョン・ウーは、やはり「作家」のようだ。脚本だけを読んだなら何のことはないといった感じだろう単純な物語、クサすぎて耐えられないはずのスローモーションやストップモーションを打ち消す弾丸の音、例によってときどき流れる感傷的な音楽、『狼 男たちの挽歌・最終章』を思い出させる鳩、今回は比較的前面に出ていたが結局は脇役にすぎない女優、いつものように港町、……。

ところで、ゴダールの『映画史』には、寸劇でゴダール自身が登場し「作家主義とは、作家ではなく、作品のことだったんだよ」と発言する場面があるが、これに大笑いしてしまったのは、そのときの劇場では私ひとりだった。今どき「作家」たろうとすることは、道化への意志なくしてはありえないはずで、北野武が代表的な作家であることも当然だし、ウーも、たぶん意識的なのだろうと思う。

しかし、職人の仕事という点では、いくつか腑に落ちない場面もあった。例えば、トム・クルーズが鳩をきっかけに敵の副官に見つかり、手榴弾を投げて打撃を与えたはずなのに副官に捕まってしまうという場面があるが、これは、続く物語からすれば、当然、副官が優勢というカットからつなぐようにしないと、演出としての効果は上がらないはずだ。映研の高校生でも注意するはずのこのカットつなぎを、ウーやプロデューサーたちが見落としたとは考えにくいから、だとすると、これは彼ら流のギャグということだったのか(これには笑えなかった……)。

ちなみに、私がウーの映画を好きな点の一つは、どんなに大作を作れて大勢の人間が登場していても、実のところ、主要登場人物としては味方は2〜3人、敵は1〜2人、という原則を崩していないということにある。B級とは、そういうものだろう。今回はクルーズのワンマンが目立ったが、できれば、男たちの友情だけではなく、ハワード・ホークスのような男と女の友情という線を引き継いでほしいものなのだが。

Written: Sun Jul 16 JST 2000

国民の歴史

西尾幹二が監修だかをしている『国民の歴史』(産経新聞社)という本があった。ベストセラーになったらしい。じっさい私も買うつもりだった。値段も高くはなかったし、特に、ダメ押し的に「ブックオフ」できれいな半額のを見つけたときには……。今となっては貴重な保守的知識人で、ニーチェ研究者でもあり、政治的なスタンスは自分とは逆に近いのかもしれないが、彼が語ったという「ヒトラーやムッソリーニのような独裁者すら生み出せなかったことが、近代日本の不幸なのです」という言葉には、正直、ある種の感銘を受けていたからだ。

にもかかわらず、いまだに買ってないし読んでもいないのは、そのときは雨で、店内をぶらついているうちに、傘をさしながらあの分厚い本をぶら下げて帰るのが、つい面倒になってしまったからにすぎない。そんなことを、同シリーズとなるらしい、西部邁による『国民の道徳』の広告を見かけて、思い出した。

ところで、政治家やマスコミなどがよく使うこの国民という言葉は一体どういう意味なのか。英語でいうネーション・ステートを日本語では国民国家と訳したりするわけだが、ジョルジョ・アガンベンの『人権の彼方に』によると、nationはラテン語の「生まれ」(出生)から来ているとのこと。イタリア語やフランス語で見たら明らかなのだが、今まで全然気がつかなかった… (^_^;)。結局、ネーション・ステートとは、領土内で生まれた人々の国、ということだったようだ。考えてみれば、中世の領民は封建領主との契約だけだから外国人でもよかったわけだし、逆に国王が外国人ということもおかしくはなかったのだろう(笑)。

つまり、「国民の歴史」というのには、歴史的(笑)な必然があるわけだが、今もし別の歴史がありうるとしたら、どのようなものなのだろうか。やはり、こういうことに一つの答えを提案してくれるのは、まずジャン・リュック・ゴダールなのだ。WoWoWによる「第一章」の放映を録画して見て以来、噂しか聞くことができず、ガリマール社の採録本(?)は買って流し読みしていたのだが、突然ユーロスペースでの一挙上映という嬉しいことが起こった。前の席の人の頭が邪魔で見にくいのは相変わらずの劇場だったが、フィルムそのものはさすがに凄い。

「単なる一つの歴史」が、にもかかわらず/だからこそ、普遍的であるということ。そして、面白い歴史の本は、通読する必要などもなく、どの一部分を流し読みしても、面白いのだということ。そして、……。

Written: Mon Jul 3 JST 2000


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