『アウト・アウト』誌のドゥルーズ特集

『アウト・アウト』(aut aut誌は、イタリアの「思想系」の雑誌で、日本で言えば『現代思想』(青土社)と『思想』(岩波書店)の中間くらいだと言えると思う。

1951年にエンツォ・パーチによって創刊され、現在の編集長は、ジャンニ・ヴァッティモとともに『弱い思想』Feltrinelli, Milano, 1983)を編集したピエール・アルド・ロヴァッティ。特に協力〔寄稿〕している人々として、ジョルジョ・アガンベン、ジャン・ボードリヤール、マッシモ・カッチャーリ、ジル・ドゥルーズ、ジャック・デリダ、ジャン=フランソワ・リオタール、エマニュエル・レヴィナス、ポール・リクール、ミシェル・セール、ジャンニ・ヴァッティモなどが挙げられている。本来は隔月刊なのだが、最近は年に数回しか発行されなくなっており、残念なことに経済的に苦しいようだ。

最近の内容は以下のとおり。

1996年1-4月号(271-272号)特集「幻想の現在」
1996年5-9月号(273-274号)「レヴィナスの『他者』」、メルロ=ポンティ論など
1996年9-10月号(275号)特集「内/外――排除のシナリオ」
1996年11-12月号(276号)特集「ジル・ドゥルーズ――哲学の発明」
1997年1-4月号(277-278号)「信じると信じること」、ドゥルーズ・インタビューなど
1997年7-10月号(280-281号)特集「無限の公理化」

ここでは、WWW上で公開されている276号の概要を、勝手に日本語に拙訳してみたいと思う(言うまでもなく、文責は私にある)。

前書き

この特別号のタイトル「哲学の発明」は、おそらくドゥルーズの仕事に最も近づける表現だろう。彼の仕事は、あまりに多層的で、それらに共通の交差点を常に見付けられるとは限らず、むしろ枠にはめることが不可能なものだからだ。彼の死から1年、この号を彼に捧げるにあたって、われわれには、この「発明」という言葉こそ、彼の思考の意味(諸意味、と言ったほうがいいが)を表現するのに最もふさわしく、彼の複数主義に最も敬意を払える言葉だと思われる。

1970年、フーコーは「いつか、たぶん、世紀はドゥルーズ的になるだろう」と言った。この意図的に大げさな言葉には、言うまでもなく、ユーモアや挑発や親しみが込められていた。だが、ドゥルーズの思考は、まさに、一つの過剰だ。というのも、哲学的言説の諸コードに比べて、彼は保守主義の原理や「常識〔共通感覚〕」に対して、明言的に闘い続けたからだ。この過剰によってこそ、彼の思考は、さまざまな領域や混成(文学、絵画、映画、精神分析などについて、ドゥルーズによる哲学は、それらを征服まではしなかったものの、それらの中に一つの新しいモビリティを見出した)の発明であり、諸作家(ヒューム、ニーチェ、スピノザ、ライプニッツや、その他の人々は、それぞれ正史的な調教術に還元できないタッチで解釈された)の発明であり、とりわけ、諸概念の発明なのである。これらについては、特集に収録したいくつかの断篇のそれぞれが、ドゥルーズ自身の言葉を通して、報告してくれるように準備をしたつもりだ。

ここに用意した資料や論文は、彼の業績の過剰さを通して、また、テーマの比類ない多様性によって、彼の仕事の再考を試みている。この号にはすべてを収めることはできなかったので、他の寄稿者のものは本誌の次号に載せられることになるだろう。

276号の概要

  • ドゥルーズ書誌(ファビオ・ポリドーリ編)
言葉の意味
  • 「哲学の発明」:ファビオ・ポリドーリ
資料
  • 「ノマド的思考」:ジル・ドゥルーズ
  • 「音楽的時間」:ジル・ドゥルーズ
  • 「実在的なものとヴァーチャルなもの」:ジル・ドゥルーズ
出席者
  • 「思考のドゥルーズ的な襞」:ジャン=リュック・ナンシー
  • 「絶対的な内属」:ジョルジョ・アガンベン
  • 「ドゥルーズと可能なもの(政治における非=ヴォランティアについて)」:フランソワ・ズーラビシュヴィリ
  • 「アリスの世界の中」:ピエル・アルド・ロヴァッティ
  • 「思考、倫理。『意味の論理学』の諸テーマについて」:パオロ・ガンバッツィ
  • 「ベルクソンと間違った問題」:ラウラ・ボエッラ
  • 「逃走する魂。ドゥルーズと精神の地平」:ダヴィデ・タリッツォ
  • 「考えること、語ること。ジル・ドゥルーズの映画」:レイモンド・ベラー
  • 「ドゥルーズと文学」:ガブリエーレ・ピアーナ

言葉の意味

「哲学の発明」:ファビオ・ポリドーリ

[……]ドゥルーズは、哲学的でないような多くの作家や、多くのものごとについても書いた。しかし、その移動(領域やトーンなど。文体はそれほど変わらなかったが)にもかかわらず、おそらく彼はそれほどたくさんの対象を持っていたわけではなく、たぶん対象はただ一つだけだった。つまり、対象は、それ自身、決して同じものではなかった、という意味で、対象は一つだけだったのだ。一つのものごと、一人の作家などは、実は問題ではない。へーゲルや、精神分析、そしてプラトンさえも、それ自身としては闘うべき何かではない。ドゥルーズは、たとえ彼が攻撃した作家や作品についても、それらの重要性や、創造的で発明的で全く革命的な成果を理解していないことはなかった。ドゥルーズが闘ったものは、作家やその思想ではなく、彼が、それらの生成変化〔何か=になること〕と呼んだものであり、それらが(ニーチェにおける力の命題にかかわる言葉をもう一度使えば)「反動的=になること」が問題になるとき、つまり、思想の持っていた蓄えが力を失い、使い果たされ、または、存在の新しい、しかもより強い正統化に変わってしまうとき、なのである。あるいは、それらの生成変化が、常識の支配を減らしていく効果を生み出さなくなり、ドゥルーズが(精神分析やマルクス主義において)コード化や再コード化と呼んだものに場所を譲ってしまうとき、つまり、元々は反動的な力に対抗して用意され、新しい思考によって生み出された言表のシステムが、その反動的な力そのものに奉仕し始めてしまうとき、なのである。

したがってここにおいて、ドゥルーズの批評的な申し立てを正しく知ることができる。彼は運動とかモビリティという言葉を使って、思考の破壊的な可能性を動きのない内部、枠の中に還元してしまう整理や均一化に対抗して書こうと、いつも努めているのだ。ドゥルーズが教えてくれるのは、二つの面をもった危険だ。哲学の新しい申し立てが、いわば高いところ(垂直化しようとする思考の諸傾向や諸原理)からの正統化(の要求)にさらされるからであり、また、哲学を常識に奉仕するものにしてしまうことを示すから、それは保守主義の二重のリスクなのである。つまり、創造的、発明的なエピソードが思考の既成的なイメージに取り込まれる(または、均一化される)とき、「哲学的な概念的思考は、常識の要素から引き出された、前哲学的で自然的な思考の<イメージ>を、暗黙の前提として持ってしまう。[……]そして、ほら、このそれぞれのイメージは、思考が何を意味するかを知っているとか、または知っていることになってしまう。[……]こうした思考のイメージは、教条的または正統的イメージ、道徳的イメージと定義することができるだろう」


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