ジル・ドゥルーズと情報

時間=映像

個人的に、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズの『映画』(第一巻は『運動=映像』、第二巻は『時間=映像』)ほど、日本語訳の出版が待ち遠しいものはない。翻訳権は法政大学出版会が獲得して出版予定とされているが、第二巻の原書が出版されてから14年、いまだにいつごろ出版される目処なのかは不明だ。かつて学生時代にさっそく原書を入手して拙い語学力で流し読みしたわけだが、さすがに辛いものがあるので、やはり正確な日本語訳で通読してみたい。なんとか頑張ってください > 訳者の方々。

それはさておき、この本は「映画作家」を芸術家というよりはむしろ思想家と見倣して書かれた哲学書といえるが、ところどころに「情報」についてコメントした部分がある。ドゥルーズは盟友ともいえるフェリックス・ガタリに比べて「情報」には否定的だったようで、それについて書かれた文章は少ないため貴重だし、特にこの本では映画や映像との関連で述べられているので興味深いものがある。

そこでここでは、それらのいくつかを訳してみたい。

ところで、そもそも原著Cinemaの各巻の書名をどう訳せばいいのかという問題がある。それぞれ、L'image-mouvementL'image-tempsなわけだが、ドゥルーズに特有の名詞二つを連結符(英語で言えばハイフン)でつないだ言葉になっていて、この本の概要を紹介している雑誌『ユリイカ』(青土社)の1996年10月号「ドゥルーズ『シネマ』を読む」でも、例えば第二巻の書名は「時間‐イマージュ」「時間イマージュ」「時間イメージ」「時間=イメージ」「イマージュ=時間」「映像‐時間」…など、さまざまなものが試みられている。僕は素人だが、私見では、英語の場合、名詞が二つ続いたら前の名詞が形容詞的な役割を果たす(日本語でも同じ)はずだが、フランス語にはそうした用法はないと思う。ドゥルーズが「映像の」「時間の」といった形容詞を使わずに、わざわざ二つの名詞を連結符でつなぐという一般的でない使い方をしているのには、ゴダール的な「と」の用法と同じく、二つの概念を優劣をつけずにくっつけて並べ、戦わせ、働かせるという意図が込められて、この言葉は「映像と時間」「時間の映像」「時間的な映像」「映像の時間」「映像的な時間」などを同時に意味しているはずだ。ただ、文脈上はやや「映像」に重みがある気がするし、英語では一般に形容詞が名詞の前に来るが、フランス語では一般に形容詞は名詞の後に来るといったことも併せると、この場合は後ろにある「時間」を前にもってきた方が日本語としてはいいように思う。

また、このフランス語のimageをどう訳すかについても、「映像」では視覚的なものだけを“イメージ”しがちだからとか、いわゆる「イメージ」とは違う意味もめられているから「イマージュ」にするとかといった感覚にも納得はできるが、この手の話は切りがなくなるし、もともとごく一般的な単語が使われているものを邦訳で特異な翻訳語にしてしまうのには違和感がある。「聴覚の映像」「思考の映像」といった日本語もそんなにおかしくはないはずなので、できるだけカタカナは使わずに済ましてみたい。

さらに、連結符そのものをどう扱うかについては、「こなれた訳」にするために無視するというのにも一般的には一理があるが、この場合はやはり想定される意図を生かすために、なんらかの形で残してみたい気がする。日本語の印刷物では「ジャン = ポール・サルトル」などのように、欧米語のハイフンは「全角の二重ハイフン」に置き換える習慣があるが、残念なことにコンピュータのJISコードには適当な文字がなく、またスタイルシート(CSS)に十分に対応したブラウザもないのでうまく表現できない。カタカナの人名の中などの場合は「=」を使っても誤解の余地はほとんどないが、それ以外の場合は、この文字は「イコール」にしか見えないはずなので、ここでは半角の「=」を使って、結局、「時間=映像」と表記することにする。

なお、映画や書物の題名以外の原文のイタリック体部分は<strong>(多くの場合、太文字で表示されるはず)にし、頭文字が大文字で始まっている単語は《》で囲み、訳者による注釈は〔〕で囲んでいる。

映像と情報

「X. 結論」の「1」の、目次で「映像と情報」とされていると思われる部分において、ドゥルーズは以下のように書く。

[...]自動機械〔オートマット、ロボット〕の現代の形象は、電子工学的な自動性〔オートマティスム、規則性〕の相関物だ。電子工学的映像、つまりテレビやヴィデオの映像、数値的に生み出される映像〔コンピュータ・グラフィクス〕は、あるいは映画を変形し、あるいはその死を刻印してそれに取って代わるつもりだった。我々は、当初の企画を超えるこれらの新しい諸映像の分析をするつもりはないが、ただ、映画的な映像との関係が定義されなければならないいくつかの印象は記しておこう。新しい諸映像には、もはや外在性(視界外)はなく、一つの全体の中に内在化されているだけだ。それらにはむしろ、自身に戻る力のような、裏返すことはできるが重ねることはできない一つの表と裏があるのだ。それらは永遠の再構成の対象であり、そこでは、一つの新しい映像は以前の映像のどんな地点からも生まれることができる。そこでの空間構成は、視角や座標を変化させ垂直性と水平性を取り替え続ける一つの多方向的な空間のため、特権的な方向、特にスクリーンの位置が今でも証言している垂直性の特権を失う。そしてスクリーンそのものも、慣習上垂直の位置を保ってはいても、窓やそれ以上に絵のような人間的な姿勢を示すようにはもはや見えず、むしろ「データ」が書き込まれる不透明な表面、情報テーブルを構成し、情報が《自然》に取って代わり、都市=脳、つまり第三の目が《自然》の両目に取って代わるのだ。そして結局、音響は自身でますます映像の全体像を与える自律性を勝ち取って、音響的なものと視覚的なものという二つの映像は従属性も公約性すらもない複雑な関係に入り、尺度なき一つの共通の限界に達するか、それぞれが自身の限界に達する。こうしたすべての意味において、精神的な新しい自動性は、今度は心理学的な新しい自動機械を指し示すのだ。

(ジル・ドゥルーズ:『映画 2――時間=映像』)

次に、映画の映像が、時間=映像の中に、電子工学的なものとは似ていないが自律的な機能を既に先取りしていること、ブレッソンの心理学的ロボットとしての「モデル」、ロメールの人形的な登場人物、ロブ=グリエの催眠術にかかった人物、レネのゾンビなどが、もはやエネルギーや動きではなく、言葉や情報の機能において定義されることが述べられる。レネにおけるフラッシュバックならぬフィードバック、小津における180度のつなぎカットの大胆さ、スノウにおける空間の方向の撹乱が挙げられる。

[...]スクリーンの垂直性は、もはや慣習的な意味〔方向〕しかもたず、そうしてスクリーンは運動する一つの世界を見せることを止め、整理されているにせよ乱雑にせよ、多くの情報を受け入れる一つの不透明な表面になろうとし、その上に登場人物や物体や言葉が「データ」として書き込まれるのだ。映像の読みやすさは、その表面を、新聞がそうであるだろうな人間的な垂直の位置とは無関係にもしてしまう。スクリーンが絵のフレームまたはマスク(窓)のように作用するというバザンの代替案は、決して十分ではなかった。というのも、オフュルス流の鏡=フレームや、ヒッチコック流のタピスリーのフレームもあったからだ。だが、フレームやスクリーンが計器盤とか、印象〔感光〕や情報のテーブルとして機能するとき、映像は、別の一つの映像の中に切り抜かれ、表面の走査線をとおして表示され、「メッセージの不断の流れ」の中の他の諸映像の上を滑べり続け、そしてショットそのものは、目というよりも、むしろ情報を吸収し続ける多忙な脳に似る。つまり、情報=脳、都市=脳のカップルが、《自然》=目に取って代わるのである。[...]

ストローブ、デュラスに続いて、ジーバーベルク〔ドイツの映画監督。作品は『ヒトラー、あるいはドイツ映画』(1977)など〕が取り挙げられる。「現代の世界は、情報が《自然》に取って代わった世界なのだ」。ジーバーベルクの作品の本質は「メディア効果」であり、それは「視覚的なものと音響的なものとの分離、分割が、情報空間のこの複雑性を表現する任務をまさしく負うことになる」からである。

[...]ジーバーベルクは、敵として、ヒトラーのイメージを取り上げる。存在していないヒトラー個人ではなく、因果関係に応じてこれからもいっそうヒトラーを作りだしていくだろう一つの全体性のことだ。「我々の内なるヒトラー」とは、単に、ヒトラーが私たちを作ったのと同じく私たちがヒトラーを作ったとか、私たちは潜在的なファシストの要素をすべて作ってしまったとかではなく、ヒトラーは私たち自身の中に彼のイメージを構成する情報によってしか存在しない、ということを意味している。人は、ナチス体制や戦争、強制収容所はただの映像ではなかったし、ジーバーベルクの立場は曖昧だ、と言うだろう。だが、ジーバーベルクの確固たる考えは、いかなる情報も、それがどんなものであろうと、ヒトラーに打ち勝つには十分ではないということなのだ。いくら全証拠を見せ、全証言を聞かせようとしても、情報を全能(新聞、そしてラジオ、そしてテレビ)にするものとは、その無価値そのものであり、その根本的な無効さである。情報は、その力を築くためにその無効さを使うが、その力そのものも無効であるというものなのであり、だからますます危険なのだ。ヒトラーに打ち勝ちつために情報を超え、その映像をひっくり返さなければならないのは、このためである。さて、情報を超えることは、同時に二つの面から、二つの問いに向かって行われる。つまり、その源は何か、そしてその受け手〔宛先〕は何か?だ。これは、ゴダール的な教育法の二つの問いでもある。情報は、そのどちらにも答えない。なぜなら情報の源は、別の一つの情報なのではなく、その情報自身が知らせることにすぎないからである。情報の堕落があるのではなく、情報とはそれ自体が堕落なのだ。したがって、語られたすべての情報を超えなければならず、純粋な言葉の行為、支配的な神話や流通している言葉やその信奉者等の逆のようなものである創造的仮構、利益や搾取〔開発、操作〕を引き出す代わりに神話を創造できる行為、などを抽出しなければならない。また、視覚的なすべての層を超え、廃墟から去って世界の終わりでも生き延びられ、見える身体の中に言葉の純粋な行為を受け入れることもできる〈情報が純粋に知らせるもの〉を打ち立てなければならないのだ。『パルジファル』〔中世の伝説的な騎士の名。ワーグナーに同名の作品があり、それをジーバーベルクが映画化した〕の最初の光景は、ワーグナーの巨大な頭を映し出し、それが歌としての言葉の行為に創造的な機能、一つの神話を与えたこと、ルートヴィヒやカール・マイやヒトラーはそれの取るに足りない倒錯的な使い方で堕落にすぎないということを示す。別の光景では、その大きな頭に由来している視覚的な全空間を横断し、自身の頭が分割されるために世界の果ての最後の空間から二分化されて去っていくパルジファルを映し出し、女の子の方のパルジファルが、贖罪の声を、表明はしないが全存在の中に受け入れることを示すのだ19。視覚的なものと音響的なものの非合理的な循環は、ジーバーベルクによって、情報とそれの超越に関係づけられる。贖罪や、知識を超えた芸術は、まさに情報を超えた創造でもあるのだ。[...]映画の生と生存は、情報的なものとの内なる戦いにかかっている。情報的なものに対して、それを超える問題、その源と受け手〔宛先〕の問題、精神的自動機械としてのワーグナーの頭、心理的自動機械としてのパルジファルのカップル、などを打ち立てなければならないのである21


19. ミシェル・シオンは『パルジファル』の中で機能しているプレイバックのバラドクスを分析している。〔映像と音の〕同期にはもはや信じさせるという目的がなく、それは、男の声を伴った少女の顔であったり、彼らは互いに自分のものだと主張する二人であったりするなど、その身体が「自分のものであるとする声に対して、これ見よがしによそ者として留まる」真似をするためなのだ。したがって、聞かれる声と見られる身体の解離は、乗り越えられはせず、逆に確認され、強調される。では、同期は何のためなのか、とシオンは問う。それは、神話の創造的機能の中に入るのだ。同期は見える身体をつくるが、それはもはや声を出す振りをする何かではなく、受信者〔受信機〕や絶対的な受け手〔宛先〕をつくる何かなのだ。「それによって、映像は音に言う。あちこちさ迷うのは止めて、私と住みに来なさい。身体は声を受け入れるように開かれているのだから」。参照:「告白」(『カイエ・デュ・シネマ』、338号、1982年7月)。

21. 哲学的には、これはレーモン・リュイエが『サイバネティックと情報の起源』(フラマリオン)で行ったことだ。自動機械の進化を考えて、彼は情報の源と受け手〔宛先〕の問題を提起し、映画のフレーミングの問題と無関係ではない「枠づけ」の概念を構築している。

日本語で「情報」や「案内」と訳されるinformationは、「知らせる」という動詞(フランス語ではinformer、英語ではinform)から来ていて、その語源は文字どおり「形を与える」ということでもあるが、常識的に理解されている情報、言語学や記号論で説明されている情報などは、定義からして「堕落」していることになる。ヴィデオやコンピュータ・グラフィクスなどの新しい技術は本来はそこを超える能力を秘めているのだが、じっさいにはそれらのほとんどは、テレビのような反動的な「社会的」機能を果たすだけに陥っているのだ。

政治と情報

ドゥルーズのインタビューを集めた『記号と事件――1972-1990年の対話』(原題は「折衝」。河出書房新社)はとても面白い本で、映画やフーコー、哲学などについても触れられているが、最後に「政治」という章があり、アントニオ・ネグリによるインタビュー「管理と生成変化」と、「追伸――管理社会について」という文章が収められている。(続)


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