アントニオ・ネグリの『時間機械』

ネグリについて

アントニオ・ネグリ(通称、トニ・ネグリ)は、イタリアの政治哲学者で、元パドヴァ大学教授。現在は、イタリアの獄中に幽閉されている。

研究分野としては、おおざっぱには、デカルト、スピノザ、カント、へーゲル、マルクスなどの批判的読み直しだと言えると思うが、特にマルクスについては、『資本論』よりもむしろその「草稿」と見做されてきた未完の『経済学批判要綱』Grundrisse。邦訳:『マルクス 資本論草稿集1〜2』、資本論草稿集翻訳委員会訳、大月書店、1981。なお念のためだが、『経済学批判』に収められている「経済学批判序説」とは別の著作)に着目し、自由、平和、労働、主体、革命などの概念を革新し続けている。日本では、フェリックス・ガタリやジル・ドゥルーズと親交の深かった人物、と言った方が通りがよいかもしれない。

主な著書には、『支配とサボタージュ』『マルクスを超えるマルクス――「経済学批判要綱」についての講義ノート』『野性の異例性――スピノザにおける権力と力能について』などがあり、いづれも日本語による全訳はないが、一部は雑誌などに日本語訳されている(近著の『構成的権力』は、日本語訳の出版予定があるという)。

共著としては、もう絶版になっているかもしれないが、ガタリとの共著『自由の新たな空間』(朝日出版社)が日本語で読める。また、『現代思想』(青土社)1998年3月号が「ユーロ・ラディカリズム――アントニオ・ネグリの思想圏」という特集を組んでいる。

ネグリは、イタリアの政治混乱期(今でもあまり変わらないかもしれないが)に「過激派の元凶」としてさまざまな告訴の被告にされ、支援者によって獄中から代議士に当選させられて出獄したものの、'83年にフランスに亡命(ガタリが身元保証人になった)。'87年には欠席裁判で有罪にされながらも、パリ第8大学などでの研究・教育・執筆活動を続け、'97年、逮捕されることがわかっていながら「歯ブラシとタオル」だけを用意して母国に帰国し、空港から刑務所に直行させられた。友人のガタリが死に、ドゥルーズが自殺したという件も一因といわれているが、安易な神話化は差し控えるべきだと思うものの、その言動には、死刑の際にも弟子たちを笑わせたといわれるユーモアの人=ソクラテスを思い起こしてしまう。

この「ネグリ事件」については、以下を参照。

『時間機械』について

『時間機械――難題・解放・構成』Antonio Negri: Macchina Tempo, Rompicapi Liberazione Costituzione, Feltrinelli, Milano, 1982.)は、「資本の下への実質的な包摂(服属)」(マルクス)が個人の生活を含めて社会全体に及ぶ「ポスト工業社会」において、今なお(いや、今だからこそ)「共産主義」への移行という「難題」に向き合うネグリの「宣言」と言うべき書物になっている。いうまでもなく「時間機械」というタイトルは、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス――資本主義と分裂症』(市倉宏祐訳、河出書房新社)における「戦争機械」を反映しているだろうし、「タイム・マシン」のイタリア語訳とも考えられる(ドゥルーズの『映画 2』『時間=映像』と名付けられていたことも思い出される)。ちなみに、表紙はロラン・バルトの水彩画だ。

ネグリの基本的スタンスは、ある意味では簡潔明瞭にも思える。資本主義が発展し、工場などのいわゆる生産現場だけではなく、生活全般、社会全般を覆ってしまうとき、かつての「社会党・共産党批判」などをも超えた、階級としての分離〔離別〕や、個々人の差異や固有性の側からの新しい方法論的アプローチが求められている、というわけだろう。

特に、本書の大きなテーマの一つである「時間」は、今や資本のための「尺度」でしかない。じっさい、僕らは「労働時間」と「余暇時間」しか持っていないのだ(笑)。

こうした時間を解放して、「生の時間」を構成すること。そのための「蒸気機関車のような機械ではなく、馬やイザヤの白い鳥のような機械。われわれを隷属の外へ、砂漠の彼方へ、約束の土地へ向けて連れ出してくれる機械」を構成すること。または、自ら、そうした機械になること。「時間機械とは、社会化されたプロレタリアートである」。

ネグリは、いつもながら、ヤケクソのようなポジティブさ?(または、絶望のどん底から跳ね上がってきたポジティブさ?)で、こうしたアピールを続けている。

しかし、正直言って、ネグリの文章は読みやすいとは言えない。

『哲学とは何か』(財津理訳、河出書房新社)で「哲学は、概念を創造することを本領とする学問分野である」と定義したドゥルーズ=ガタリは事実、天才的な発明家だったが、ネグリもそれに劣らず、使い古された概念(特に「マルクス主義」の概念)を擁護・顕揚(映画における「ヌーヴェル・ヴァーグ」?)したり、または、再定義して意味をずらしたり反転させたり、二重化したりし続けている。

例えば、本書のタイトルの一部にもなっているcostituzione(英語では、constitution)には、おおざっぱには「設立・創設・構成」と「憲法」という2つの意味がありえるが、ネグリは意図的に、両方の意味で使っているように思える。la costituzione proletariaには、「プロレタリアの創設」と「プロレタリア憲法」の両方の意味が込められているように思えるのだ。第二次大戦後に制定されたイタリア共和国憲法の第1条は「イタリアは労働に基礎を置く民主的共和国である」であり、「労働」を一つの主題にしてきたイタリア人・ネグリが憲法を意識する背景の一つはそこにあるのかもしれない(ちなみに、ほぼ同時期に制定された日本国憲法の第1条がどのような条文かは言うまでもない)。とりあえず、ここでは関連する邦訳例にならって「構成」としたが、もっとふさわしい訳語がありえるはずだとも思う。

そもそも、「アウトノミア」と呼ばれた時期、autovalorizzazione(英語では、self-valorization)は、資本が労働者の剰余労働による剰余価値を搾取することによって得る「価値増殖」と邦訳されてきた概念のイタリア語訳だが、ネグリはこれをプロレタリアート側の言葉に転用し、「自分の価値を有効利用すること、自分の質的な価値を高めること」という意味で使っていた。

また、最近強調するようになったautodeterminazione〔自己による決定〕も、資本による限定といった具合に否定的に使われていたdeterminazione〔限定〕を、ポジティブなものに転覆させたものだと言える。

いや、そもそも、「否定的労働」というときの「否定」はポジティブだし、逆に、「資本の“ポジティブ”な労働」というときの「ポジティブ」は否定されるべきものになるだろう。

否定の否定、としての肯定。“建前としての肯定”の否定、としての肯定。

ネグリは、概念の優れた「再生業者」(単なるリサイクル主義者ではなく)にも思えるし、ガタリの語った「エコロジー」とは、実はそういうものだったのかもしれない。

本書については、まだ日本語による紹介がないようなので、早く日本語訳が出版されることを願って、一部を以下に拙訳してみる。〔〕は訳注。

目次

  1. 序文の形での結論
    第1章
    実践とパラダイム
  2. 危機の刺激剤:方法のアプローチ
    第2章
    哲学的批判の方法について
    第3章
    社会学的批判の方法について
    第4章
    政治学的批判の方法について
    第5章
    歴史学的批判の方法について
  3. 移行の難題
    第6章
    市場の転覆
    第7章
    革命的規範
  4. 断絶、足跡、新データ
    第8章
    考古学とプロジェクト。大衆的労働者と社会的労働者
    第9章
    ファシズムと権利:方法の一つの実験
    第10章
    危機〔恐慌〕国家の危機〔恐慌〕
    第11章
    否定的労働とプロレタリア的制度性
  5. 構成と階級闘争
    第12章
    レジスタンスを超えて:80年代に向けた行程
    第13章
    時間の構成。序論
    0.0. はじめに(0.1. 序論)―― 1.0. 第1の転位:包摂された存在の時間(1.1. 尺度的時間と生産的時間; 1.2. トートロジーと組織; 1.3. 敵対の一つの環境Umwelt; 1.4. 転位、履歴現象、非対象、革新)―― 2.0. 第1の構築:集団的時間A(2.1. 苦行とエクスタシー:流通の分析)―― 3.0. 第1の構築:集団的時間B(3.1. 危機:集団的実践の現象学のために)―― 4.0. 第2の構築:生産的時間A(4.1. 貨幣、価値、ノーメンクラトゥーラ:時計と戦争の間; 4.2. エネルギー:空間のフェードアウト)―― 5.0. 第2の構築:生産的時間B(5.1. 生産的協働と労働の拒否; 5.2. 内的時間と外的時間)―― 6.0. 第3の構築:構成的時間A(6.1. 国家の硬い時間:情報と承認)―― 7.0. 第3の構築:構成的時間B(7.1. 階級闘争の時間:新しい制度性; 7.2. 二元論と多元論:論理的マトリクスについて; 7.3. 身体と構成の時間)―― 8.0. 第2の転位:革命Wの時間(8.1. プロジェクトと死:現在Jetzt-Zeit; 8.2. 内因性のプロセスと外因性のプロセス:分析とカタストロフィー)―― 9.0. 第3の転位:革命Yの時間(9.1. 時間機械; 9.2. 構成と階級闘争
    (注)原書の目次には、「9.0. 第2の転位」などの誤植があるので、本文と照らして修正した。

第13章 時間の構成。序論
  9.0. 第3の転位:革命Yの時間

9.1. 時間機械

始めるにあたり、これまでの分析結果に従おう。Yという文字の下に記す一連の事象は、解放の力能の総体であり、それは実質的な包摂(服属)が完了し、そこを駆け抜ける敵対的なオルタナティブが撃たれたとしても、生の時間の織物の中に痕跡を辿ることができるものだ。この構成的な無媒介性の中、生産力の中、主体や行動を放つ無限の弓の中にあるこれらの解放の力能を、採用しよう。方法は、唯物論の厳格な方法――物や集団的行動の論理に内在的ではないあらゆる媒介を排除した方法――であり、したがってそこでは、経験論的で後天的〔アポステリオリ〕なものだけが必然性の論理的カテゴリーをもたらし、慣習的なものだけが普遍的だ。それでは、解放の時間はどのようにして現れるのか? その概念はどのようなものか?

a) 解放された時間の概念は、多面性、普遍的な多方向性として与えられる。実質的な包摂の大きな塊の全体性の中では、解放された時間は、搾取された時間の残りでも、命令された時間の残りでもなく、資本主義社会の全てのリンクを切り離し、破壊する力なのだ。全てに衝突するので、解体するのである。したがって、解放された時間は、多方向的、多面的、普遍的な諸関係の一塊〔マス〕の概念なのだ。

b) 解放された時間は、生産性〔生産的な質〕だ。権力によって引きはがされ隔離された生産的合理性であり、権力はこの合理性を分析し、生の時間から強奪したのだ。生産性と言うと、ふつうはプラスのもの、増加の要素、創造的モーメントなどのことを言う。マルクスにおいても、これらは――革命のプロジェクトの基盤に根ざしたものにもかかわらず――謎を作り出してしまった。が、それは、この創造的プロセスが資本の尺度から救い出されるまでの間だけの謎にすぎない。だから、そうなれば、生産的合理性は労働に対する闘争であること、資本の「ポジティブな」労働の時間的な限定を破壊するのが否定的労働であること、は明らかだ。解放された時間の多面性には、生産の創造的な性格が付け加えられることになる。だが、何を生産するのか? 再び、解放された時間を生産するのだ――死や、苦しみや、権力の虚無に対抗して。

c) 解放された時間は、主体性だ。解放は、労働の拒否から生産的合理性の再発見へ、自己価値化〔自己の有効利用〕から自己決定へ、自発性から開かれた集団的意識へ、といった主体性の形の中で起こる。解放された労働の硬い質的な核心を作る創造性は、ここに、想像力と希望の形で宣言される。そして想像力は、否定的労働に統合されており、それは技術的=科学的労働の性質そのものなのだ――解放の労働として、単面的な地平の破壊として、理性の多様な形の装置として、具象化された経験の忌まわしいパラダイムの根絶として。

d) 解放された時間は、集団性だ。闘争と解放のプロセスは、解放された時間は計ることのできない時間だという論理的なパラドックス――なぜなら、解放とはまさに、尺度時間の構造的な次元を破壊することの中にあるからだ――へとわれわれを導いた。したがって、解放された時間を組織する唯一のスキーマは、集団的実践の現象学的な用語の中にたどることができる。には、集団的行動と異なる性質は一つもないし、生産性や技術的=科学的労働の概念と異なるような性質も一つもないのだ。解放された労働の多価値性や多面性の中では、集団的凝集のポテンシャルだけが変化する。集団的行動の法則は、もし現実にそれが定義されなければならないとしても、この次元にしか立てられ得ないのだ。

e) 解放された時間は、構成の機械だ。機械と言うと、物質的な必要性や、固定資本(死んだ労働)などとして理解されるかもしれない。当然だ。しかし、経験や想像力が概念的関係を変化させることができることには変わりはない。ここでは機械を、a)、b)、c)、d)で記した、解放された時間の諸性質を整備した総体だと理解しよう。機械は、解放のプロセスの具体的なものであり、時間の本質的な諸軌道が収束する点なのだ。具体的なものとは、全体性の地平や表面になる、一人の社会的・プロレタリア構成員の主体性である。すべての限定は、『序説』の方法論的指示――それは、転位の第2レベルにおいて、完全に実現している――に従って、具体的なものを定義しようとする。主体性と集団性の間、多面性と創造性の間に、進歩的諸関係の戦略が必要なのだ。われわれにとっては、神は物であるといった貧しい欺瞞は十分ではない――われわれは、物が神であるというプロジェクトを生きよう。われわれの解放された時間の機械は、強く、優しく動き、死を知らぬ新しい世界を定義していくのである。

9.2. 構成と階級闘争

現代の諸構成は平和を前提とする。平和は基本的な価値として与えられている。ホッブズ=ルソー=へーゲルの線は、基本としての平和を、つまり戦争の解決としての平和を採用する。ホッブズにおけるように契約的な、ルソーにおけるように神話的な、へーゲルにおけるように弁証法的な形で、諸利益の多様さと労働から発する戦争状態を平和は解決する。だが、平和の概念と戦争のそれは、本当に対立した二つの概念で、したがって平和は戦争の対案かつ解決策として考えられうるのだろうか? 私には、そんな関係がありうるとは思えない。私は唯物論の古典の伝統の中に、戦争の反対かつ解決としての「平和」は読まない。私が読むのは、生〔人生、生活〕だ。

平和は、したがって、私には戦争の解決ではなく勝者によって偽られた価値にしか思えない。もし戦争が暴力であり生の破壊であるとしたら、平和――それは権力の基礎であり目的として引き受けられている事実に明らかなのだが――のパラドクスは、それが効果的であるためには、平和は戦争を批准するということにある(ここで、平和=戦争の諸関係や政治家をめぐる果てしない文献目録を挙げることはまったくの蛇足だろう)。国家の基本は平和であり、平和が勝利であるという意味において、シミュラークルに還元された、勝利の合法化された持続だ。国家の基本は、合法的暴力の執行のための条件としての平和の維持なのだ。したがって、平和は合法的な暴力だ。暴力は平和の義務によって合法化される。反動的な思考は、あらゆる装いにおいて、ブルジョア的であれ社会主義者的であれ、これらの主題についての最高の試験を作ったのだ。

だが、実質的包摂――既に転位の第一フェーズだが――の中に入るとき、基本的で基礎的な価値としての平和の欺瞞は成り立たない。労働の完全な社会化と、それとともにある敵対の完全な社会化は、平和を長続きする地平や合法性のシミュラークルとして考えることを許さない。平和とは、発展のこのレヴェルにおいては、戦争だ――戦争的敵対の日常的な解決であり、単に戦争なのだ。「平和」という価値は成り立たない。なぜなら、各々のイデオロギー的な投影のように、平和は敵に対する勝利についての、洗練された製品ではないにせよ、少なくとも複製であることを必要とするからだ。だが、敵対の中に完全に共・外延的に巻き込まれた社会の中で、この表象的(で統一的)な複製の可能性はどこにあるのか? 各々の主体がパルチザンに違いないときに、どのようにして敵を見分けられるのか? そして、関係が敵対の一致(共存)や全体性の上に張りめぐらされているときに、どのようにして勝利を見分けられるのか? さらに、第二の転位においては、分離――単に傾向的であるにせよ――が物理用語の意味で起こり始めるとき、平和という言葉は、交戦する諸党の一つの旗としての象徴の意味を正当に持つこともなくなるのだ。

生の時間と、その存在論的パラダイムの分析は、平和の概念の欺瞞性を確認する。平和のゼロ時間は、戦争の死んだ時間と同質である。当然だ。もし平和が勝利の固定化ならば、その時間はゼロであり、平和は敵の死の再生産である。諸法令〔諸構成〕と諸行政〔諸管理〕の時間は、勝利の、平和のゼロ時間の執行だ。もちろん、構成的時間の諸価値は強度を変えうる。(一般の代表の典礼における)葛藤の構成的シミュレーションから、(抑圧的な実践における)戦争の残虐の法的行使まで、ありうるのだ。だが、行政と政体によって生きられた時間の性質は、常に、生きている時間的存在の無化である。

構成と管理によって濾過された平和の時間は、労働の社会的組織体の中で、蓄積と利潤の尺度時間としても示される。(かつての)ブルジョワ的体制が暴力の、平和の、死の時間のイデオロギー的形態を称賛したとすると、(かつての)社会主義的体制は搾取のための組織の無の時間の物理的な機能を称賛した。だが今や、形態と機能は同一化している。こうして平和の野蛮さが精製されたのだ。それは、実質的包摂におけるプロレタリアの敵対的全体性に対峙された、死の、こうした社会システムに内在的な人類の破滅の可能性なのだ。この野蛮さの物質化(と、内的な組織の形態から国際的な組織への延長)は、核の国家にある――平和の維持のために疑うまでもなく適した力だ!。

国家の消滅と、その一時的なパラダイム――生の時間の組織のための諸価値――の消滅は、プロレタリア的構成〔プロレタリア憲法〕だ。時間のプロレタリア的機械。

生の時間のプロレタリア的構成は、二つの基本的な線の上に組み立てられていく。一つは、分離、敵対、国家に対する戦争を主張する線だ。それは、労働の否定的な力の発展に結び付いており、(前提条件としての)平和の価値には還元できない生の価値の再主張であり、搾取の推移のいかに小さなつなぎ目をも解放する諸戦略の継続的な定義である。戦争は、プロレタリアートと、集合的資本の排他的代表としての国家との間の関係の現実なのだ。実質的包摂の社会の全ての網の目を横断する伝統的メカニズムだけが、停戦の行程を定められるだろう。したがって語れるのは平和ではなく、ある永遠の内戦において微分されたモーメントだ。ブルジョア的構成〔ブルジョア憲法〕は、せいぜい、戦争の組織だ。言い替えれば、敵対の最大レヴェルまでの資本主義的発展の組織化――ある永遠の内戦という次元であり、その制御である。だが、これについては私たちは語りすぎた。

プロレタリア的構成を構築する第二の線は、分離の内部へ、そして内部から発展する線だ。それは、自己価値増殖、自己決定、共同体…といった諸価値の自律的表現に基礎を置く。内的な媒介は、解放の諸時間に従う。だからそれは、すぐれて実践的、決定的な解放であり、その必然性は単にアポステリオリ〔後天的、経験的〕なものだ。政治を超越性や技術や単なる自律〔アウトノミア〕として定義するすべての形式は、この観点では消える。プロレタリア的構成においては神秘主義は生じない。媒介は、そこでは構成的〔立憲的〕な力能としてしか起こらないのだ。包摂された社会のレヴェルで階級の文脈を見分ける多様性と差異の領域は、非差異〔未分化〕や無関心〔無差異〕とは大違いだ。だから、以下のように繰り返すのも陳腐に思える――そうなのではない、そうしたことの上にすべては支え合っているのだ。したがって、多様性と差異は具体的なものであり、それらの実質は不可逆的だ。現実の組織的な諸メカニズムや、社会的組織の構造的な諸形態は、これらの差異を横断する(結局は、これが「ヘゲモニー」というグラムシの概念――文化の曖昧な機能から取り出された、実践の代わり〔表象〕としての――が、実践的ではないにせよ、いまだに発見的な有効性をもつ唯一の意味だ)。こうした現実の中でこそ、プロレタリア的構成〔プロレタリア憲法〕が働く。それを予示することは、だからここにおいては、いかなる意味でもユートピアではない――それは具体的な活動なのである。厳しい唯物論は、諸主体の豊かさの中に、行動的な決定と構成的なプロジェクトの間の緊張をもたらす。生の時間、つまり諸戦略が通る生きられた時間の存在論的な実践は、この予示的な緊張を見分ける。プロレタリア解放の時間の機械は、生の内と外、身体を投資し、集団的――集合的――にそれらをオペレートさせるのだ。集団的な力能として。あらゆる超越性は、論理的なものであれ、間違っている。あらゆる媒介――時間的、集団的、生産的な存在の物質性の前や中でないとしても――は、純粋に単純な欺瞞だ。階級における内的な媒介の問題は、予示的な傾向の明示に過ぎず、その物質的な確認に過ぎない。否定的労働の実践は、哲学的伝統の媒介者狂を解決し否定する。集団的想像力は、否定的労働の軌道に従って構成〔創設〕され、配置〔準備〕されるのだ。

[中略]

だから、平和や尺度時間や存在論的虚無ではなく、生や存在論的時間や生産が、構成的〔創設的、立憲的〕力能なのだ――生きた神であって、金の仔牛〔ヘブライ人が崇拝した偶像〕ではないのである。


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